このごろは閻魔大王どうですか
モルさんが「週刊俳句」29号のチャット記事における谷雄介氏と私のやりとりについて、ブログに書いてくれている。
すこし補足させていただくと、問題になった「先に十二音を作ってあとから五音ととりあわせる」というのを、私は少々勘違いしており、先に十二音を完成させたのち、用意された特定の五音をはめ込む、つまり作者に選択の余地のない、完全に偶然性にゆだねられたスタイルを想像していたのである。
しかし実際はそうではないようで、先に複数の十二音フレーズを考えておき、二つほどの季語が発表されたあと、作者がフレーズと季語の組み合わせを選択するということで、作者にもとりあわせの選択の余地が残されていることになる。
私は決して偶然性の面白さを否定するものではない。
福笑いや、モルさんが挙げている「ラブジェネレーター」が偶然性がもたらすナンセンスさ、奇妙さによって笑いを誘うことは興味深い事実だし、俳句にそのような要素をとりいれることも価値のある試みであると思う。
たとえば「板の間句会」というウェブページが結構昔からある。
ここでは上五、中七、下五それぞれのフレーズを誰でも自由に登録することが出来る。そしてワンクリックでそれらのフレーズをランダムに組み合わせた句を作成してくれるのである。最近では、出来た句を読み上げてくれる機能なども提供されている。
「このごろは 閻魔大王 どうですか」「ニュースでは ころ柿の里 炒め煮に」「ぼんやりと 五臓六腑に カレー丼」
これらは上記システムで作られたものだが、ここにも奇妙な面白さ、モルさんの言う「ちぐはぐな面白さ」がある。
上記はコンピュータとインターネットを利用して自動化、公共化されたものだが、古くは江戸期から「天狗俳諧」と称してほぼ同じ仕組みの創作実験が行われていた。
週刊俳句THC号の「十二音技法」に関しての拙文では、このあたりへの言及が充分ではなかったが、上記の例ほど極端ではないにせよ「とりあわせ」による句は、つねにこのような偶然性の面白さに隣接している。
チャットの記事中で谷氏が以下のように述べていることもここに関係してくるだろう。
「ユースケ: あと、このシステムは初心者だけでなくベテランにも親切なわけで、既成の言葉の連関にない発想を得ることができる。たとえば、鳥渡るっていうのが季語としてあって、人がそこから飛躍しようとしても、自ずと限界はあるだろうと。季語から始まるのではなく、言葉から始まるっていう、もっと「純」な作句ができるんじゃないかと。以上です。」
上記の発言は、発想の飛躍を偶然性によって獲得しようとしているとも解釈できる。
その方法自体を私は否定しない。
私自身も作句においてしばしばこれに近い方法を試みて、詩的跳躍を得ようとすることがあるし、このような方法がもっと注目されても良いのではないかとさえ思っている。
私が谷氏とのやりとりのなかで感じたのは「偶然性の面白さ」に俳句入門者がはやばやと馴染んでしまうことへの若干の危惧である。
週刊俳句THC号の拙文「十二音技法」にて述べた「表現することのよろこび」は、やはり「自分が感じたことが、読者に伝わる」という満足感をその出発点にするものではないだろうか。
自己表現という言葉に拒否反応を示す人が多いのは、自己表現と称した浅薄な類想の氾濫に辟易した結果であって、本来、自己以外に表現できるものなどないはずなのだ。それが言い過ぎだとしても、すべての事象は自己を経由してはじめて表現の対象となる。
もちろん偶然性もまた、自己の内部の闇を照らし出すための手段のひとつになり得るのである。
ただ、私が危惧するのは、この方法があまりにも手軽に「笑い」という成果をもたらすことである。
この偶然性がもたらすナンセンスな笑いに、一種の麻薬のような魅力があり、はからずもそこへ淫してしまう危険性があることは、私自身が身をもって経験してきたことである。
本来の表現するよろこびに達する前に、この麻薬にのめりこんでしまうことは、危険なことなのではないかと考えてしまう。もちろん余計なお世話ではあるのだが……。
モルさんは以下のように書いている。
「青の会が面白さのみを追求していった先の不気味な事態を暗に示しているような気がしてならないのです。(略)ただ、最近の青の会はどこか行き過ぎているような危うさを感じたのでこんな記事を書かせていただきました。」
このような感覚は健全なものなのだろう。
ともかく近日中に「青の会」を実際に体験し、私の危惧が杞憂にすぎないことを確認したいと思う。


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