November 17, 2007

このごろは閻魔大王どうですか

モルさんが「週刊俳句」29号のチャット記事における谷雄介氏と私のやりとりについて、ブログに書いてくれている。

すこし補足させていただくと、問題になった「先に十二音を作ってあとから五音ととりあわせる」というのを、私は少々勘違いしており、先に十二音を完成させたのち、用意された特定の五音をはめ込む、つまり作者に選択の余地のない、完全に偶然性にゆだねられたスタイルを想像していたのである。
しかし実際はそうではないようで、先に複数の十二音フレーズを考えておき、二つほどの季語が発表されたあと、作者がフレーズと季語の組み合わせを選択するということで、作者にもとりあわせの選択の余地が残されていることになる。

私は決して偶然性の面白さを否定するものではない。
福笑いや、モルさんが挙げている「ラブジェネレーター」が偶然性がもたらすナンセンスさ、奇妙さによって笑いを誘うことは興味深い事実だし、俳句にそのような要素をとりいれることも価値のある試みであると思う。

たとえば「板の間句会」というウェブページが結構昔からある。
ここでは上五、中七、下五それぞれのフレーズを誰でも自由に登録することが出来る。そしてワンクリックでそれらのフレーズをランダムに組み合わせた句を作成してくれるのである。最近では、出来た句を読み上げてくれる機能なども提供されている。

「このごろは 閻魔大王 どうですか」「ニュースでは ころ柿の里 炒め煮に」「ぼんやりと 五臓六腑に カレー丼」

これらは上記システムで作られたものだが、ここにも奇妙な面白さ、モルさんの言う「ちぐはぐな面白さ」がある。
上記はコンピュータとインターネットを利用して自動化、公共化されたものだが、古くは江戸期から「天狗俳諧」と称してほぼ同じ仕組みの創作実験が行われていた。

週刊俳句THC号の「十二音技法」に関しての拙文では、このあたりへの言及が充分ではなかったが、上記の例ほど極端ではないにせよ「とりあわせ」による句は、つねにこのような偶然性の面白さに隣接している。

チャットの記事中で谷氏が以下のように述べていることもここに関係してくるだろう。

「ユースケ: あと、このシステムは初心者だけでなくベテランにも親切なわけで、既成の言葉の連関にない発想を得ることができる。たとえば、鳥渡るっていうのが季語としてあって、人がそこから飛躍しようとしても、自ずと限界はあるだろうと。季語から始まるのではなく、言葉から始まるっていう、もっと「純」な作句ができるんじゃないかと。以上です。」

上記の発言は、発想の飛躍を偶然性によって獲得しようとしているとも解釈できる。
その方法自体を私は否定しない。
私自身も作句においてしばしばこれに近い方法を試みて、詩的跳躍を得ようとすることがあるし、このような方法がもっと注目されても良いのではないかとさえ思っている。

私が谷氏とのやりとりのなかで感じたのは「偶然性の面白さ」に俳句入門者がはやばやと馴染んでしまうことへの若干の危惧である。
週刊俳句THC号の拙文「十二音技法」にて述べた「表現することのよろこび」は、やはり「自分が感じたことが、読者に伝わる」という満足感をその出発点にするものではないだろうか。

自己表現という言葉に拒否反応を示す人が多いのは、自己表現と称した浅薄な類想の氾濫に辟易した結果であって、本来、自己以外に表現できるものなどないはずなのだ。それが言い過ぎだとしても、すべての事象は自己を経由してはじめて表現の対象となる。
もちろん偶然性もまた、自己の内部の闇を照らし出すための手段のひとつになり得るのである。

ただ、私が危惧するのは、この方法があまりにも手軽に「笑い」という成果をもたらすことである。
この偶然性がもたらすナンセンスな笑いに、一種の麻薬のような魅力があり、はからずもそこへ淫してしまう危険性があることは、私自身が身をもって経験してきたことである。
本来の表現するよろこびに達する前に、この麻薬にのめりこんでしまうことは、危険なことなのではないかと考えてしまう。もちろん余計なお世話ではあるのだが……。

モルさんは以下のように書いている。

「青の会が面白さのみを追求していった先の不気味な事態を暗に示しているような気がしてならないのです。(略)ただ、最近の青の会はどこか行き過ぎているような危うさを感じたのでこんな記事を書かせていただきました。」

このような感覚は健全なものなのだろう。
ともかく近日中に「青の会」を実際に体験し、私の危惧が杞憂にすぎないことを確認したいと思う。

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June 07, 2006

鬼房を語る兜太

6月3日(土)有楽町の中小企業会館にて「現代俳句講座」を聴講した。
1、2階席ともに満席で、補助椅子を出して対応するという盛況ぶりだった。

第一部は成井惠子氏による「中興の人与謝蕪村」
蕪村の方法は、南画から来ているという。
すなわち、俗を去るということ。そのためには、万巻の書を読み、千里の道を行くこと。
万巻の書を読む、といっても、読み方にはさまざまなものがあり、それを蕪村がいかに実践したかということを、ご専門の図書館情報学の手法とクロスオーバーさせて語られた。
蕪村が「純粋な俳諧精神」というものを求めて苦闘した経緯を、詳細に資料を検討した結果に裏打ちされた考察であり、 説得力があり、興味深いものであった。

第二部には金子兜太氏が登場し、佐藤鬼房について語られた。
人を惹きこむ話術の巧みさ。率直で歯切れの良い語り口は、聴衆を飽きさせない。

さて、兜太は「鬼房がいないのに自分が生きていることを不思議に思う」と語りはじめた。
同世代に、多くの、俳句しか能の無い、しかし俳句においてはとても優秀な連中がいて、その多くは世を去ってしまった。
これらの人々の「語り部」としての仕事をする時期が来た。そのことを意識していきたい、と。
評論はいらない、生き物が大事だ、生きている人間としての鬼房を語りたい、と。
鬼房を語る前に、細谷源二という北海道の俳人について触れ、彼が全国的な評価をなかなか得られない理由のひとつに、晩年になって五七五定型からはみ出てしまったことを挙げた。
それに対して鬼房が、定型を厳密に守ったということ、定型が自分の内臓の一部であるかのように「体で、厳密に、大事に」しており、その違いが、鬼房の名を不朽のものにしたと指摘した。

話は、兜太が鬼房と初めて会ったときのことに遡る。
第一句集『名もなき日夜』を上梓したのち、おそらくは鈴木六林男の手配で、関西方面への旅をした鬼房は、その帰途、福島の兜太のもとに一泊した。
鬼房は渋い表情でぼそぼそと話し、途切れると手元にある難解そうな本のページをぺらぺらとめくっていたという。
兜太は言う、鬼房はそのとき何かあせっていた、何かを求めていた。ただ、彼の考えていることを確かには理解できなかった、と。
当時の、すなわち戦後俳句中期の多くの俳人たち、主に関西を拠点にしていた人々には、情況論だけがあって、本質論がなかった。
すなわち、「何を」書くかのみがあり、「何で」書くかという視点が欠けていた。
俳句で「観念」を書く、という想いは一致していたものの、俳句形式が求めるものではなく、外にあるもの、つまり現代詩や短歌などが書いてきたものから「かっぱらっていた」のではないか、と。
そんななか、鬼房はもっとも深刻であった。深刻ぶるのではなく、深刻そのものだった。
貧しく「田舎っぺえ」であった鬼房は、たとえば俳句で生活にはどうすればよいか、ということも考えていたようだ、と兜太は言う。

神戸に転勤し、関西前衛の活気のなかで「調子に乗っちゃってた」兜太のもとへ、鬼房の第二句集『夜の崖』が届けられた。
それを手にした兜太は、福島の夜の鬼房の態度が理解できた。
そして鬼房が「観念」を自分なりにつかまえたのだ、ということを悟ったという。
活気だけではダメだ、鬼房のような真摯な姿勢が必要だ、と。
鬼房は「観念」をからだで感じること、と受け取っており、それは貧しさゆえ、生活に立ち、生活のなかで句をつくり、その他は求めないという姿勢によるものだ、ということである。
そして、話の終盤は鬼房が大事にした五七五定型というものがいかにありがたいものかという兜太の持論を展開して終わった。

「豈」42号にも書いたとおり、私は、鬼房には他者との強い親和力があり、その結果として定型を深く身につけることができたのだと思っている。
アプローチは違うが、兜太が鬼房を、定型という観点を中心に語ったことについて、共感をおぼえた。

質疑応答に移り、司会の大石雄鬼さんが「俳句の大衆性と文学性」ということについて、兜太氏に質問をぶつけた。その答えはつぎのようなことであった。
「うぬぼれるな、ということです。この句は一流だ、と思うな。一流であると同時に一般からも愛されるのが本物である。若い者で、自分さえわかれば良い、というのがいるがそれなら俳句をやる必要はない。」
これは、まさしく私自身に向けられたような言葉だ、と勝手に思ってしまい、壁際の補助席でひとり下を向いてしまったのであった。

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May 26, 2006

続・三島忌の

攝津幸彦、角川春樹の二人による「三島忌」の句について、細見さんという方がBlogにとりあげてくださっている。

春樹作品の存在を簡単に否定し去ることはできないと思う。
ただ、攝津作品をまるで「無かったもの」のようにして発表されたことが、意図はどうあれ納得できなかった。
攝津幸彦の作品が先行して存在するという事実を書いておくことが、どうしても必要であった。
それが、私があえてあのような形で両句を並べたことの動機である。

誤解の無いように書いておくが、私は作品のパラフレーズを試みたわけではないし、それが可能であるとも思っていない。
私個人が二つの句をどのように体験したかを、なんとか言葉にしようと試みたのであって、それが唯一の解釈だと主張するつもりはまったく無い。

私は攝津作品に限らず、すべての俳句作品はもっと読まれるべきだと思っている。
多くの人に読まれ、多様な読者の体験が語られることによって、作品は発表後も変化し続けるはずである。

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May 09, 2006

三島忌の

三島忌の帽子の中のうどんかな 攝津幸彦 『鳥屋』(昭和六十一年刊)

帽子の中にあるべきものは人間の頭であるが、この句ではあろうことか「うどん」が入っているという。
帽子は黒いシルクハットだろうか。
そのなかに真っ白で、つるりとした、或る太さの麺が渦巻いている。湯気を立てているかもしれない。
僕には、このうどんの姿と質感が、人間の脳みそに似ているように思えるのだ。
脳みそが入っているべきところに、脳みそに似て非なる物体が詰め込まれている。そのユーモラスさ。
そこへ三島由紀夫の忌日がかさねあわせられている。
その日、市ヶ谷駐屯地に乗り込んで自衛隊を煽動し、果たせず割腹した作家。
彼を介錯した青年は、数回失敗したあげく、首を落とす前に刀が曲がってしまったという。
もうひとりの青年によって落とされた三島の首、
そこに詰まっている脳は、かつて稀有なる美と強度を持った作品を、数多産み出したものである。
しかし、それもやがて「うどん」とさしてかわらぬ物体に変容する・・・・・・のだろうか。
死のなまぬるい感触が伝わって来て、慄然とさせられる。


三島忌の帽子の中の虚空かな 角川春樹 「河」平成十八年四月号

上記の句と、表面上の著しい類似が認められるのだが、それをあえて追求することはしない。
帽子の中にあるのは虚空だという。
空ではなく「虚空」と飾り付けることで、形而上学的な雰囲気を漂わせる。
そこにはブラックユーモアへと転ずる要素もなく、触れてくる死もなく、
不在者への哀悼と賛美を感じ取ることができるばかりである。

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February 11, 2006

「題詠100首」に参加いたします。(中村安伸)

2004年、2005年と「題詠マラソン」に参加させていただきました。
企画のかたちは変わりましたが、今年も百首の歌を作ることを自分に課してみたいと思います。

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July 23, 2005

津田清子さんを囲む

津田清子さんを囲んでの「短詩形文学を語る会」に参加するため、奈良に向かう。
伊丹空港に着いたのが12時ちょうどで、開始時刻の13時半ちょうどに近鉄奈良駅に到着した。
タクシーで会場に向かったが20分程度の遅刻となった。
新薬師寺のとなりにある、ろくさろんというライブなどが出来そうなお店で、
一階が満席だったため、二階から見下ろすかたちで聴講した。

途中から聴いた第一部の内容は、旅の句を中心にすすめられ、
橋本多佳子、山口誓子という二人の師と、友人のように親しく交流した日々のことが語られた。
近江八幡の鴨撃ちを見に行ったが実際には鴨がおらず、鷺を鴨に代えて句にしたこと、
多佳子が鉄砲玉のように思い立ったら旅に出てしまう人であったこと、
伊勢で療養中の誓子が近所のおじさんのように親しみやすかったことなどが話題にのぼる。

つねに明確で力強い語調に、ユーモアと詩的な表現が混じりあってゆく。
対話者の話を聴くときには厳しい表情を崩さず、あいまいさや説明不足があれば、即座にはねつける。
この雰囲気は、明治生まれで長く小学校教師をしていた祖母に似ているなどと思っていたら、
経歴に奈良女子師範学校卒とあった。
つまり、津田さんは私の祖母の後輩ということになるのである。

後半は岡村君が質問者となり、句集『無方』と砂漠の旅のことを中心に話がすすめられていった。
砂漠にあった、枯れ木のようでありながら命をたもっている「死ねない木」のこと、
「砂漠にいても谷底にいても自分のことを句にしている」
「鳥取砂丘は季語で縛れるけれど、砂漠は季語ではしばれない」
「季語のないところで季語は使えない」
といった言葉が印象に残っている。

終盤、会場からの質問コーナーとなり、私も堀本さんから指名をうけてマイクを握った。
「作品にご自分を登場させる際、われ、と一人称で書かれているときと、
清子、あるいは津田清子という固有名を用いられているときがあるが、
作者としての意識にどのような違いがあるか?」
具体例を挙げてもらわないとわからない、といわれたため、
前者の例として「狡休みせし吾をげんげ田に赦す」
後者の例として「灼けし溶岩さまよふ原始人清子」
をあげると、津田さんは即座に「何も違いはありません。同じです。」とおっしゃった。

もちろん読者にとってその二つは全く異なるものであり、
揚げた二例それぞれに語の選択された必然性があるはずで、
そこのところをもう少したずねてみたい気もしたが、
ともあれ「同じである」と潔く言い切られた態度にはおおいに納得がいった。

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July 20, 2005

20日(水)決意

今週土曜日に奈良で催される「短詩形文学を語る会」に参加することを決意。
当日は津田清子さんのお話を伺うことになる。
予習のため津田さんの句集を入手しようと、東京駅近くの丸善に立ち寄った。
本阿弥書店から出ている『津田清子俳句集』を入手したかったが、
在庫がなかったので花神社の『津田清子句集』を購入。
ついでというわけではないが『銀座もとじの男のきもの』というムックを購入。
なんと着付けDVDつきである。

記念日俳句、八月上旬の十五句をまとめて投稿する。

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July 19, 2005

19日(火)無気力

三連休のあとの出勤ということで、気の抜けた感じの一日だった。
それでも最低限の仕事をこなし、夜8時すぎに会社を出た。

帰宅途中、柳宗悦『手仕事の日本』を読み進める。
戦時中に書かれたものなので、現在すでに失われてしまった仕事も多いだろう。
このような地道な仕事を残してゆくために、われわれに出来ることがあるとすれば、
良いものを見定める目を養うことと、お金を惜しまず払うことだろう。

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July 18, 2005

18日(月)初麻

昨日買った麻の半襦袢と土曜日に洗濯した麻の着物を着た。
あしもとは素足に駒下駄。なかなか涼しくて快適だが、先週富岡八幡宮で購入した単の帯がすぐゆるむ。
おまけにちょっと裂けてしまった。
下駄にも馴れないので、近所をぶらぶらしただけである。
散歩の途中喫茶店に入り、八月前半の記念日俳句にとりかかる。
七月はやっつけで出してしまった句が少なからずあり、後悔している。
今回もあまり時間的余裕がないのだが、少しは気合を入れたい。

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July 17, 2005

17日(日)洋服で出かける

暑いので着物を断念し、普通のカジュアルな洋服で出かける。
まず東京国際フォーラムで開催されている、大江戸骨董市に向かう。
着物や古布を扱っているのは、250といわれる店舗の五分の一くらいだろうか。
能登上布、近江上布など、麻の着物でいくつか気に入ったものがあったが、サイズがあわず。
着物姿の女性を多数、男性も数人見かけた。
他人が着ているのを見ると、自分も着てくればよかったと少し後悔。

結局なにも買わないまま、浅草に移動した。
辻屋で下駄、永澤屋で麻の半襦袢、めうがやで柄足袋二足を購入。
永澤屋の半襦袢は、筒袖で胸にポケットのついたダボシャツ風のユニークなもの。
老舗の旦那衆との会話には、いろんなヒントがかくされていてうれしい。

夕食にはひさしぶりに野菜カレーを作ってみた。
塩加減が難しい。

ようやく面白くなってきた大河ドラマ「義経」を視聴。
中井貴一の頼朝が見事だった。

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